囂kamabisuan庵

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11月1日

神前

此松の実ばへせし代や神の秋  桃青
(このまつの みばえせしよや かみのあき)

貞享四年八月鹿島神宮を参詣する。

「実生え」は種子から発芽して育った樹木「みしょう」。

鹿島神宮の松の下に立つと、この松が実生から目を出した頃の神代の秋の気が感じられる。と。

きっと、生命のありがたさと尊さをこの松で表しているのでしょうな。

さて、本日はもうひとつのありがたい松の話。

過日ブラタモリで、高野山「空海テーマパーク」をやっていた時、弘法大師空海が何故高野山の地を選んだかという話のひとつに、「ありがたい葉っぱ」というくだりがあった。

それは壇上伽藍の根本大塔脇の「三鈷の松」に関係があった。

普通、松葉は2本なのに、この松の落葉の中には3本のものがあり、それを見つけると弘法大師空海のご利益を得られ幸せになれるということで、これ違うこれ違う・・有った!!と盛り上がっていた。

ありがたやである。

逸話では、空海は帰国前、日本の何処で真言宗を広めたら良いかと持っていた「三鈷杵(さんこしょ)」を投げた。


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帰国ご、空海は日本各地をあるき、高野山で松に引っかかってる三鈷杵を発見!!此の地高野山に、真言宗を開いたと言うことだ。

ありがたやである。

さて、さて、昨日、道立図書館に返却に寄ったアプローチ道路に昨夜の嵐で散らされた松葉がいっぱい落ちていた。

なにげなく見て見ると・・とてもとてもありがたやであった。

松落葉三鈷杵受けし証し哉 半可ξ
(まつおちば さんこしょうけし あかしかな)


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11月3日

忘年書懐 素堂亭 節季候

節季候を雀の笑ふ出立かな 芭蕉
(せきぞろを すずめのわらう でだちかな)

元禄五年十二月。と。

節季候(せきぞろ)とは、
節季に候の意。
近世の遊芸門付(かどづけ)のひとつ。
歳末に二、三人組で「せきぞろ、せきぞろ」とはやして家々を回り、遊芸をして米・銭を請うた。
と。

十二月はまだだ・・なんて思っていたら、もうそこまで。

今年も84%終了だ。残りは16%。

当地も朝晩はストーブが欲しい日があったりなかったり。

節季候を雀の囃す出立かな 半可ξ
(せきぞろを すずめのはやす でだちかな)

さあさあさあ・・冬の季節で候。季節で候。
ぴーちくぱーちく 季節で候。

そろそろ本州へでも行くべえ行くべえと、当地では雀が節季候をやってくれている。

オイラは笑って見送ろう。


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11月4日

庭掃きて雪を忘るる帚かな 芭蕉
(にわはきて  ゆきをわするる ほうきかな)

元禄五年冬。
宗匠の自画寒山像への賛だと。

寒山というエライ菩薩様が、庭の雪を箒で掃いて居ったが、そのお姿の高貴さに雪の存在なんて忘れてしまうぞな・・とか。

将に”自画”自賛の賛と言うことか。
はたまた、情景描写がイマイチの言い訳か。

さて、来週の火曜日7日は立冬。

ドカンと大雪積もる此の地では、雪を箒で掃くなんて優雅な仕事はありません。

道這って我を忘るる除雪ブル 半可ξ
(みちはって われをわするる じょせつぶる)

除雪ブルは高邁なお姿なんかではなく、猛烈に荒々しく獰猛なお姿ざんす。

さて、さて、植物園の片隅のホウキ草が美事に真っ赤。
とても絵になる赤だと思った。のでお裾分け。

庭掃きて塵を忘るる帚草 半可ξ
(にわはきて  ちりをわするる ほうきぐさ)


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11月5日

花みな枯れてあはれをこぼす草の種 芭蕉
(はなみなかれて あわれをこぼす くさのたね)

貞亨三年秋。

霜の季節がやって来て、花を咲かす草花はみな枯れちまったぜよ。
あの春の時の初々しさも、あの夏の時の艶やかさも消えちまって、今は只、老いたるその身の愚痴をこぼすかのように、種をそこら中にばらまいてはいるが、なんとなく趣があってこれまた落ち着いた姿だわさ。ってか。

枯れ草を「老ひの時の美」に喩えてるっうわけだ。

こんときのバーさんっうお人、若干ですが年寄りに優しい目線でやんす。

いま此の地では、花はみな枯れちまったけど、イチイの実が真っ赤。

イチイ・一位・アララギ・おんこと呼ばれるこの針葉樹は、余が少年期を過ごした信州では「みねぞ」と呼ばれていた。

日通のトラック車庫の傍らに樹高5・6メートルぐらいのみねぞがあって、秋になると赤い実をいっぱい付けた。

下々の子供達が駄菓子屋に飛んでいってしまうと、ひとり淋しく日通車庫のみねぞの木に登り、板葺き屋根に座って、雀のように赤い実を3っ4っ摘んだ記憶がある。

おぼっちゃんの余は、駄菓子屋行きを厳しく禁じられていた。

苦い、いや、甘い思い出だ。

花みな枯れて郷に紅点す一位の実 半可ξ
(はなみなかれて さとにべにさす いちいのみ)


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11月6日

雰しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き 芭蕉
(きりしぐれ ふじをみぬひぞ おもしろき)

野ざらし紀行(箱根越え)
関こゆる日は、雨降て、山皆雲にかくれたり。とある。

箱根越えで、楽しみにしていた富士山だが、期待通り見えたんじゃ、平凡すぎておもろないわな。
見えねえっうことがおもろいところじゃん。

と負け惜しみだわさ。

野ざらし紀行は貞享元年八月ごろ江戸を立ち東海道を行く。
目的地はいろいろ行くが、取り敢えず貞享二年の正月を迎える故郷の伊賀上野だべな。そして四月ごろには江戸に戻る。

おもろいことに帰りのコースは分からんのだそうだ。

これもまた、芭蕉=隠密説の想像力を膨らます旅であることは、間違いないですな。

さて、そろそろ此の地、自転車での徘徊もままならなくなる。
そこで、本日はその終盤チャリ徘徊からの問題。

道路の先に見えている山の名前は何でしょう?


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答は駄句のあとに。

三時過ぎチャリ漕ぐ頬に冬近し 半可ξ
(さんじすぎ ちゃりこぐほほに ふゆちかし)


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11月9日

元禄二年霜月朔日、於良品亭

     いざ子供走りありかん玉霰 芭蕉
(いざこども はしりありかん たまあられ)

元禄二年十一月一日、良品亭(りょうぼんてい)にて。

友田良品は伊賀上野藩士友田角左衛門。
後に、町奉行などをつとめた。
良品の妻智周は、伊賀蕉門の小川風麦の娘で俳号梢風。

と。

さあさこの座にお集まりのみなさん、寒さなんかに負けないで、元気溌剌とした句を・・と景気付けの発句ですたい。

発句 いざ子供 走りありかん 玉霰 ばせを
脇  折敷(おしき)に寒き 寒水仙  良品
・  ・・・

発句が「玉」で「動」なら、脇は「四角」で「静」と付けたという趣向ですら。

分かりやすいことは結構なことですたい。

昨日月一のボウリング。

どんみりとした時雨模様の雲空に記録は低調。

験直しに「いきなりステーキ ワイルドステーキ300g」

いざジジイ滾り喰わん冬眠前 半可ξ
(いざじじい たぎりくらわん とうみんまえ)


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11月13日

狂句
 木枯の身は竹齋に似たる哉 芭蕉
(きょうく
  こがらしの みはちくさいに にたるかな)

野ざらし紀行の旅中の名古屋で巻いた歌仙「冬の日」の発句でさ。

竹斎は、仮名草子の「竹斎」の主人公。

仮名草子の「竹斎」は、富山道治の手による作品で、医者・ 竹斎の失敗談を描くことで当世の流行り医者を嘲笑した内容に加え、狂歌 的な道行文などでパロディ文学として多くの読者を獲得した。と。

寛永頃には 出版されていたと思われ、以降、数度の再版がなされており、この人気に 伴って、貞享・元禄頃までに模倣作が大量に出版されたので ある。と。

竹斎は「天下一やぶくすし竹斎」という看板をかけ、「扁鵲(へんじゃく)や耆婆(ぎば)にもまさる竹斎を しらぬ人こそあはれなりけれ」と、滑稽で高慢な狂歌を、いわばテーマソングとしておったとさ。

この日の芭蕉は現在人気沸騰中の「竹斎」にあやかって、

まるで「おいらのみすぼらしい身形は、竹斎とおなじじゃん。」と自虐的態度を敢えてかまし、「でも、人気だって実力だって竹斎並みじゃねえ?」と、逆説的なクソ自慢をブイブイする態度なのだ。

ああいやらしい。

連句のやり取り、結構気遣いがたいへんなんでっせ。
脇の野水はどうじゃろう・・

発句 木枯の 身は竹齋に 似たる哉 芭蕉
脇  たそやとばしる かさの山茶花 野水
   (たそやとばしる かさのさざんか)

竹斎の笠はボロボロ継ぎだらけだが、お師匠様の笠は違う。笠に付いた山茶花の花までが優雅に・・粹さかげんが迸ってござるわ。ってゴマすって一件落着。

想像するに、野水のノドはカラカラだったろう。

余が脇を付けるとすれば・・

発句 木枯の 身は竹齋に 似たる哉 芭蕉
脇  たそやとばしる 風邪の鼻水 半可ξ
   (たそやとばしる かぜのはなみず)

即刻破門された。

理由わかりまっか?
余は藪医者竹斎の薬が効かんと付けたわけでさ。

つまり芭蕉せんせもそんなにたいした腕じゃないスって言っちまったのさね。
で、即破門。

わっはっは。わっはっは。


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11月14日

病中吟

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 芭蕉
(たびにやんで ゆめはかれのを かけめぐる)

元禄七年十月八日(西暦1694年11月24日)深更看護の呑舟に口授し筆記させた 辞世の句。

そして、四日後の 元禄七年十月十二日(西暦1694年11月28日)申の刻、大阪(説:久太郎町御堂ノ前花屋仁右衞門貸座敷)において没す。 五十一歳。

今年の時雨忌=芭蕉忌、つまり旧暦十月十二日は 11月29日だすな。

そろそろ各地で芭蕉忌の行事が行われるが、江東区芭蕉記念館のそれはなんと新暦でやってもうとっくに終わってる。

十月の始めの東京に、時雨が降るとは思えませんな。

情けない。

旅に病んで夢は秋野をかけ廻る 
(たびにやんで ゆめはあきのを かけめぐる)

じゃあつまらん!

ところで
申の刻は16時(午後4時)なんてもっともらしい解説がよくあるが、それでは当時の正確な時間が掴めませんな。

江戸時代の時法は、≪季節≫や≪場所≫によって昼夜の時間の長さがいちいち異なる不定時法を使っていたんだわさ。

不定時法はひとつの「刻」の持ち時間が長くなったり短くなったり・・

だから、季節によって、申の刻が15時半だったり16時半だったり変化するんでがす。

で、芭蕉さんのお亡くなりになった元禄七年十月十二日の申の時刻は、場所が近い京都のdataで計算すると、西暦11月28日の15時29分ごろだっせ。

むかし余は、こんな風に江戸時代の時法をすぐに調べられるスクリプトをつくりましただ。さあさ、PCから下のurlに行っていろいろ調べてみてちょうだい。

JavaScriptを使ってますんでスマホでは
■iPhone端末の場合
 1.「設定」アイコンを選択してください。
 2.「Safari」を選択してください。
 3.「詳細」を選択し、「Javascript」の項目をONにしてください。

江戸時代の時法へGO

たとえば 

元禄七年十月十二日の西暦をしらべ・・
西暦1694年11月28日を得て・・
命日11月28日申の刻が何時何分だったか調べるのでやんす。

ただし調べられる場所は札幌・東京・京都の三ヶ所なので最も近い場所を参考にしてたもれ。

しらべた結果が↓だす。

みなさまもお試しあれ。


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11月17日

痩せながらわりなき菊のつぼみ哉
(やせながら わりなききくの つぼみかな)

貞亨四年、44歳。と。

末成りで痩せてどうしようもない菊が蕾をつけたぜ。
まるでオイラみたいだぜ。

一般には秀句らしいが、余には、いささか辛気くさい句だすな。

荒んだ末成りに共感っうところがいいんですかね?

余は、自信家芭蕉のやけにへりくだった作為が好きじゃねえす。

作が一茶だったら命の営みへの応援とみて・・許すかも。

さて、本日気温2℃の寒い中、お天気がすこぶるよろしかったので、最後のチャリ散歩にでた。

大通り公園で、春一番に花を咲かせる北辛夷(きたこぶし)の準備周到な冬支度を見た。

肥えながら春待つ辛夷のつぼみ哉 半可ξ
(こえながら はるまつこぶしの つぼみかな)


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11月18日

元禄四年十一月 48歳。と。

世の中さだめがたくて、この六年七年がほどは旅寝がちにはべれども、多病くるしむにたへ、年ごろちなみ置ける旧友・門人の情忘れがたきままに、重ねて武蔵野に帰りしころ、ひとびと日々草扉を訪れはべるに、答へたる一句

ともかくもならでや雪の枯尾花 ばせを
(ともかくも ならでやゆきの かれおばな)

元禄二年の晩春江戸の芭蕉庵を畳んで旅立った奥の細道シリーズ後、中京関西地区をごろごろ漂白し、二年ぶりの元禄四年冬、住む所未定のまま江戸に舞い戻り、日本橋に仮住まいする。

森繁久彌が謡った船頭小唄と同じこころの元禄版だわさ。
いわゆる泣き節。

詩:野口雨情


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こうも泣かれては、弟子達もほっとけない。

次の年の五月に、杉風と枳風が出資し、曽良と岱水が設計の新しい芭蕉庵が出来上がる。

ともかくもならでや庭の花芭蕉 半可ξ
(ともかくも ならでやにわの はなばしょう)

駄多こねて泣いて得する芭蕉かなである。

さて、本日積雪若干あり。

ともかくもならでや雪の季節哉 半可ξ
(ともかくも ならでやゆきの きせつなり)


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11月19日

庭興即事

作りなす庭をいさむる時雨かな 芭蕉
(つくりなす にわをいさむる しぐれかな)

元禄四年十月。と。

元禄二年以来の上方住いを終えて江戸に下る折、美濃の国垂井の本龍寺に立ち寄って詠んだ句。と。

本龍寺の庭はリニューアルの出来たてほやほや。

いさめるは励ます意で、たまたま降って来た時雨が御祝儀に水を撒いてくれていると景気づけている句だすな。

余がガキの頃、中年夫婦二人組の植木屋さんが、ダイハツミゼットに道具を積んでやって来て、剪定やら冬囲やらをするのが丁度今頃だった。


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当地は昨日から雪。


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これで、庭造りも畑作りもチャリ散歩も四・五ヶ月封印だわさ。

と言っても余には庭も畑も無いけどね。

ってことで・・・

豪の雪行くとこもなく紙細工 半可ξ
(ごうのゆき ゆくとこもなし かみざいく)

11月20日

猫山

山は猫ねぶりて行くや雪の隙 芭蕉
(やまはねこ ねぶりていくや ゆきのひま)

天和元年(38歳)頃から天和四年(40歳)頃までの間。と。

「陸奥名所句合」と題する。のだと。

「猫山」は会津の磐梯山の別峰。だと。

さすが猫山だけに、猫が毛繕いでなめた様に、雪が無いところもあるよ。とか。

朝起きたら積雪20㎝くらいだわさ。

このくらいになると管理人は除雪車小型のブル公を走らせる。

いい時代だ。

ブルドックねぶりていくや雪の隙 半可ξ
(ぶるどっく ねぶりていくや ゆきのひま)

ここ数年当地は、11月だというのにしっかり冬の街。


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11月24日

里古りて柿の木持たぬ家もなし 芭蕉
(さとふりて かきのきもたぬ いえもなし)

元禄七年八月七日、51歳。と。

伊賀上野の芭蕉の妹の夫といわれている井筒屋新蔵の望翠亭での発句。と。

余の育った練馬の実家には柿の木が二本あった。
いわゆる新興住宅地だが、他にも何軒かの家にも柿の木があった。

ことしも柿を戴いたが、いつも戴く富有柿ではなく、庄内柿にはがっかりした。

注文するのを忘れていたと言っていたが、先方もだいぶボケがまわってきたらしい。


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余は断固!甘柿が好きなのだ。
毎年絵手紙でだす御礼は止めて電話だけにした。

人古りて柿送り忘るもしかたなし 半可ξ
(ひとふりて かきおくりわするも しかたなし)

2017/11/27追加

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11月26日

風流の初やおくの田植うた 芭蕉
(ふうりゅうの はじめやおくの たうえうた)

奥の細道須賀川。

元禄二年四月二十二日。

逗留中の奥州岩瀬郡須賀川の顔役、相楽伊左衛門等躬邸にて。

 風流の初やおくの田植うた 芭蕉
  覆盆子を折りて我が儲け草 等躬
  (いちごをおりて わがもうけくさ)

芭蕉さんの、まことにご当地の田植歌は風流の極みでござんすねえというご挨拶句に、等躬さん、いやいや、田舎くささ丸出しで、まるで野いちごを摘んできて儲けられるような・・まあ物珍しさが華でやんすと謙遜して受けました。

さて、句の季節はド夏だが、風流つながりということで、余の部屋の来年のカレンダーのはなし。

余の部屋のカレンダーは、何時頃からか忘れちまったが、ひとつは、サライ12月号の付録のそれである。

今年は「鈴木春信:風流江戸ごよみ」・・風流ときた。


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もうひとつは数年前から毎年戴く、
「二十四節季七十二候歳時記カレンダー」だす。


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風流の続きや歳のカレンダー 半可ξ
(ふうりゅうの つづきやとしの かれんだー)

古くさいジジイは、年より歳になじむつーところが、古くさい理由と、只今、気がつきましただよ。

11月27日

武蔵守 泰時 仁愛ヲ 先トシ
政ハ 欲ヲ 去ルヲ 以テ 先ト 為ス

名月の出ずるや五十一ヶ条 芭蕉
(めいげつの いずるやごじゅう いっかじょう)

貞亨五年、45歳。と。

越人編纂の『庭竈集』の「賢臣」の題で掲載されている句。だと。

北条泰時が五十一か条の御成敗式目を発布したことを詠んだ。と。

北条泰時がどんだけ名君であったかは知らぬが、六波羅探題を復活したり御成敗式目を発布し、武家政治体制を確立させたことは確かだ。

御成敗式目(ごせいばいしきもく)は、鎌倉時代に、源頼朝以来の先例や、道理と呼ばれた武家社会での慣習や道徳をもとに制定された、武士政権のための法令(式目)である。(後世、貞永式目という)

名月の昇るように、明らかな式目を高らかに提示した優れた政治家だ、とか。

で・・なんでなんだ?・・

ひょっとすると芭蕉は反体制派なのか?
いやいや、逆にものすごく強固な体制擁護派か?

そうなんです。
まさに時の総理は徳川綱吉。


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綱吉総理は、
この句の一年前の貞亨四年に、例の生類憐みの令を発布している。

さて、どう見る?諸君!
余は、芭蕉は反体制派と見るぞよ。

久しぶりに国会が始まった。


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名月の出ずるや憲法第九条 半可ξ
(めいげつの いずるやけんぽう だいくじょう)

名月の昇るように日本国憲法第九条は優れた条文だぞよ。

余も芭蕉さん同様、反体制派であるわいな。

11月28日

蛇食ふと聞けばおそろし雉子の声 芭蕉
(へびくうと きけばおそろし きじのこえ)

元禄三年三月下旬。と。

其角の
 うつくしき 顔掻く雉子の け爪かな
を受けての句であるらしい。

「芭蕉翁全伝」によれば、この句は伊賀から膳所にいく途中で半残に宛てた書簡中の句だと。

今や廃れぎみだが、
「焼け野のキギス、夜の鶴」は、子を想う母の愛情のたとえだ。

さらに雉は、
妻呼ぶ鳥として夫婦愛の象徴でもあった。とか。

しかし現実は、
うつくしき顔をひっ掻くような凶暴さで、 おまけに蛇まで食ってしまう猛禽類さながらだわさ。

芭蕉にとって雉は、
鳴いている声聞くだけでも恐ろしい存在の鳥だとか。

キジの雄は、ケーンケーンと鳴き、
雌は、チョッチョッと具志堅用高さんみたいだとか。

さて、芭蕉さん、
本当は何を言いたいのか・・分かるかな?

人や政治家の現実の姿なんて、
一枚剥がせば真逆もあるでさ・・と、ゆうとると違いまっかね。

御意向と聞けばおそろし天の声 半可ξ
(ごいこうと きけばおそろし てんのこえ)


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11月30日

忘れ草菜飯に摘まん年の暮 芭蕉
(わすれぐさ なめしにつまん としのくれ)

延宝六年、芭蕉35歳の時の作。と。

「忘れ草」とはマメ科の多年草の甘草。だとか。

芭蕉くんは桃青時代。

延宝六年、この年はよっぽど何か悪いことでもあったのだろうか。

宗匠立起したものの鳴かず飛ばずの焦りでもあったのか、忘れな草でお粥炊いて忘年会しよおっと!と言う句でありますだ。

暦でもまだ年の暮れはチと早いが、ボケ話。

先日JRを急いで降りたら手袋が片っぽ無い。

昨日ああそうだと、Sapporo駅の遺失物の窓口に立ち寄ったら、担当者がさも自慢げに「たぶん有りますよ。ただ、もう警察に移行しました。」とPCのデータリストを検索しながら教えてくれた。

お気に入りの物だったので超ラッキー感を味わい、手袋片っぽでもちゃんと保管管理手続きをしておいて下さったことには驚いた。

警察にて無事、余の右手袋は左手袋と、再び対に戻った。ありがたやである。

財務省・文科省に見習わせたい日本の良習だと感じた。

一方、余はもっとしっかりせねばと、
手袋片っぽ分の値段のランチ鰻重で、脳ミソに栄養を補給した。

忘れ物忘れず取り行く年の暮 半可ξ
(わすれもの わすれずとりゆく としのくれ)


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