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延宝四年、芭蕉33歳の時の作。
富士山は抹茶を引くは茶臼に覆い布を掛けたような格好をしている。とか。
じゃあ?蚤ってなんだ?
「蚤が茶臼」という表現は、身分不相応の物を持つことへの「揶揄」だそうだが、ここでは、単純に、富士山の「形」を身近なもので例えてみたのだろう。
で、そのスケールを表現するために、「蚤から見た茶臼を覆う布の形やで!」と言っているのだろう。
当時の社会は、町人が文化社会面に台頭著しい頃。
おそらく「蚤が茶臼」は、当時の世相を反映するトレンドワードだったのかもしれない。
さてさて、
その富士山の形だが、
とても便利な、国土地理院のWEB地図で、富士山の断面を見てみた。
なんと、富士山は意外と「なで肩」なのだと思った。
おや?おや! 芭蕉君や葛飾北斎先生は、ギュウと鋭く表現し、我々は全く違和感なくその感性による富士山の表現された姿を受け入れている。
むしろ、地理院のWEBがポンと書き出したグラフの方が違和感があり、トロく、間抜けで、デローンと感じ、納得がいかないが、写真と重ねてみるとグラフの描いた輪郭はピッタリ正確だった。
しかし、人工で機械的に描き出だされた断面のグラフ表現による富士山の形状は正確だが、人の心を動かさない。
山肌の具合とか、空の様子、周りの雰囲気など諸々の条件による演出が加わり、富士山は、シャキーンとしたイメージを我々に与えてくれるのだ。
それらの条件が、ある種の「錯視効果」をプラスに引き出し、我々の情緒の世界は生き生きと開花させ、また、その力の影響力は実に大きいのだ。
光、風、色、味、時間と、人の心のゆとりがあって、初めて、万物は人の心の中に納まるものなのだ。
政治の世界も同じだ。
法律という白文がただあれば良いという物では無い。
と言うことで狂句
議事堂や金権貉が避難小屋 半可ξ
(ぎじどうや きんけんむじなが ひなんごや)
そこにいるだけで、世紀的な災害が勃発する中でも、被害には合わないし、何も対策しなくても沢山お金がもらえて、安心できる場所。おまけに犯罪を犯しても逮捕も起訴すらされない場所。
国会という場所は。