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テーマ:内田九一大坂時代の写真か?(shige2003/11/29)


内田九一の大坂時代に撮影したと思われる有力な情報、及び写真を見つけました。(shige2003/11/29)
きっかけは埼玉の青木さんが持っていた松本良順の写真です。

勝海舟、甲賀源吾、松本良順の写真で同じ椅子に腰掛けている写真があります。
この勝、甲賀、松本の写真は、三人とも同じようなデザインの軍服を着ていること、 松本良順は慶応三年二月頃までは大坂にいたこと、 勝海舟も慶応二年九月までは京都にいたこと、 回天の艦長であった甲賀もこの慶応年間(2年、3年)は、 江戸と兵庫、大坂を軍艦で行ったり来たりしていること ということから推測すると、 京都、大坂で撮影された可能性が大きいです。(もちろん江戸の可能性もありますが、・・・)

但し、甲賀はその艦長という立場から、軍艦を長く離れて、 京都に滞在するのは難しいでしょうから、 兵庫か大坂あたりで撮影された可能性が一番あるように思われます。
ということをいろいろ考慮すると、 いずれにしてもこれらの写真は、 慶応ニ年〜三年が撮影日時としては有力です。
内田九一は慶応ニ年十月頃までは大坂にいましたから、 これらの写真は人間関係も考慮すると、 断定はできませんが、 慶応ニ年頃に内田九一が撮影した可能性もあるように思えます。(もちろん他の写真師の可能性もありますが)

(shige2003/11/30)
勝海舟の日記をもう一度詳細に調べていました。
まず慶応年間に勝海舟、松本良順、甲賀源吾の3人は たびたび会っていました。
さらに面白い記述を勝海舟の日記から見つけました。 慶応四年閏四月十五日の記述です。 それは以下のように書かれています。
(前略) 英人サトウ方へ、ウイルソンへの返事、 並びに写真料十八両、ビツトウへ届方頼み遣わす。 (後略)
この慶応四年閏四月十五日頃というのは、 ちょうど榎本艦隊引渡しの件で勝海舟が江戸で苦労していた時期です。 この日記の「ビツトウ」というのは、「ベアト」のことではないかと 僕は考えています。
ということで、この勝海舟、松本良順、甲賀源吾の3人の写真は、 江戸でベアトが撮影した可能性も出てきましたね。 うーん、・・・・


コメント(shige)
甲賀源吾(天保十年一月三日〜明治二年三月二十五日). 幕艦「回天」艦長で、宮古湾の海戦で戦死していますから、当然この甲賀源吾の写真は明治二年三月二十五日以前に撮影されたことになりますよね。

コメント(shige)
『日本近現代医学史』などによると、「戊辰戦争により江戸が官軍に明渡されて後、医学所頭取であった松本良順は会津へと逃れ」とあることから、江戸城が官軍に引き渡されたのが 慶応4年4月11日ですから、 松本良順は慶応4年4月頃までは江戸に居た事がわかります。




「勝海舟の日記」慶応四年閏四月十五日の記述  (shige 2003/12/10)

(前略)英人サトウ方へ、ウイルソンへの返事、 並びに写真料十八両、ビツトウへ届方頼み遣わす。(後略)
は、勝海舟が写真料を支払ったという内容ですから、 これは少し料金が高いのですが、 素直に撮影料金(複写の分も含む)を ベアト(ビツトウ=ベアトと仮定して) に支払ったと解釈しました。


さて、この写真について、本日もっと面白いことに 帰宅して気が付きました。 「図録アーネスト・サトウ 幕末維新のイギリス外交官」という本に これと同じ写真が掲載されていたのに気が付きました。 この写真は現在は横浜開港資料館蔵の写真ですが、 元はアーネスト・サトウの旧蔵写真アルバムにある写真でした。 しかもこの写真の裏書きには以下のようにありました。


Katsu Awa no Kami
1868
A chab XXXI

これは図録の解説によると 勝安房守 1868 31章ということだそうです。
しかも「A Diplomat in Japan」 ==邦名 「一外交官の見た明治維新」 1921年刊初版 原題== に使用されたこの写真の左端には、 鉛筆によるトリミングの跡がある。 と解説されていました。 (確かに写真の左端には鉛筆で縦にトリミングの線があって 4という数字が書かれていました)





こんな感じでした。
ということでこの写真は慶応4年の撮影で間違えないようです。 勝海舟の別の初期の写真はやはりアーネスト・サトウの勧めで 江戸城開城の頃にも撮影されています。 この時の写真は後に絵画としても遺されています。 (作者川村清雄) 元の写真はアーネスト・サトウが撮影したといわれています。

(shige)他の写真については、現在調査中です。 僕としては松本良順のあの洋装姿が気になっています。この洋装姿の写真はもしかすると明治になってからかもしれませんね。
「勝海舟江戸開城図」川村清雄/画 江戸東京博物館所蔵
英領事館員アーネスト=サトウ撮影の写真をもとに描いたもの。
作者川村清雄は、旧幕臣の子で、ベネチア美術学校で画技を修めた。
帰国後、公私にわたり海舟の援助を受け、徳川歴代将軍画像の製作などの画業を残した。

というわけで、やはりこの写真も、 慶応四年閏四月十五日にベアトが撮影した可能性の方が高いですね。
これで内田九一撮影の可能性はなくなりました。


関連 中島三郎助の写真へ

kitu888tuki@yahoo.co.jp