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| テーマ:揺り椅子写真2 中島三郎助の写真のテーブルクロス | |
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| 中島三郎助テーブルクロスと勝海舟のそれはよく似ている(shige) (HP)本当によく似た感じがします。もうちょっと解像度が良い写真だともっと納得できるのに、残念。 ということは、勝の写真と三郎助の和服写真は、同じ頃、同じところで撮られたもの、と考えていいのでしょうか。 では、揺り椅子3枚シリーズの内田九一撮影説→訂正→ベアト写すの勝海舟はどうなりますか。 (shige 2004年1月4日) ベアトは居留地17番で開業するのは明治2年ですが、 その前まで自分の寫場(スタジオ)を持っていませんでしたから、 おそらくベアトは下岡蓮杖の寫場(スタジオ)を借りて撮影したのではないでしょうか? そのような話しをどこかで読んだような気もしますが、 まだ何という本に書いてあったのか見つけられません。 ということで、 勝の写真と三郎助の和服写真は、 同じ頃、下岡蓮杖の寫場(スタジオ)で撮られたもの、 と仮説してもいいのではないでしょうか。 (HP)では、ベアトは慶応3年春ごろから明治2年のスタジオ開業までの間、時々蓮杖の写場を借りて人物肖像写真の撮影をしていた。その期に撮影されたものに、勝の揺り椅子写真(慶応4年=明治元年)と三郎助の和服写真(慶応3年春)がある。ということでよいですか。 また、小道具の揺り椅子やテーブル、テーブルクロスは蓮杖の写場のものでしょうか、ベアトが持ち込んだものでしょうか。 | |
|   | またまた、揺り椅子シリーズの松本の床にひかれた布も勝のテーブルクロスの転用のようにも思えますがどうでしょうか。 | 
| 中島三郎助は、箱館戦争当時、箱館奉行並として千代ヶ岡陣屋を守備していたが、土方歳三の死から僅か5日後の明治2(1869)年5月16日、新政府軍の猛攻にあい、最後まで降伏を拒絶し、長男恒太郎(22歳)・次男英次郎(19歳)とともに壮烈な死を遂げた。 現在、この付近は中島三郎助父子に因んで「中島町」と命名されている。 現在の市立中島小学校付近から千代台運動公園にかけた一帯は、幕府から蝦夷地警備を命じられた仙台藩が築いた陣屋があった(後に津軽藩が受け持つ)。 箱館戦争時には、中島三郎助父子らがたてこもり、陣屋の陥落と運命を共にした。  左上から榎本軍の顧問団として参加したフランス国軍人と榎本軍士官、大鳥圭介、榎本武揚、清水谷公考、土方歳三、杉浦誠、箱館奉行所庁舎 徳川幕府が、蝦夷地防備と諸外国の脅威に対処するため、蘭学者であり箱館奉行支配の諸術調所(しょじゅつしらべしょ)教授の武田斐三郎に命じ、 安政4(1857)年6月着工、元治元(1864)年5月一応の完成を見た(郭内面積約125,500m2・総面積約250,800m2。) 西洋の城塞を基にした5つの稜が突き出る特異な形状であったことから五稜郭と呼ばれた。 外圧からの防備に対して造られた五稜郭が、鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争最後の舞台となり、多くの若い血が流されたのは皮肉なことである。 大正3(1904)年に公園として一般に開放、大正11(1912)年国の史跡に指定され、さらに昭和27年3月に国の特別史跡に指定された。現在は、桜の名所としても有名で、市民・観光客にも親しまれている。 「かなしくも 皇師とまみゆ 五稜郭 オロシヤのために 備えつれども」 与謝野晶子 函館戦争ミニ年表 | |
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