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テーマ:酒井忠篤公と十三人の家来と共に写された集合写真 (2003/11/17) |
前回の洋学史研究会の例会でも紹介しましたが、 内田九一が明治4年7月24日に浅草の内田の写真館で撮影した写真に、 「酒井忠篤公と十三人の家来と共に写された集合写真」があります。明治四歳辛未秋七月廿四日調練之戦従 呦鳴(ユウメイ)公至浅草門外内田九一写真于時 公春秋十九歳陪従者十三人姓名年齢 記左云 酒井忠篤公データ 嘉永6年(1853)2.13〜大正4年(1915)6.8. 幼名/元 服後/通称. 繁之丞/忠篤/中殿(明治後). 号. 蓬堂、呦鳴公 。 「酒井忠篤公と十三人の家来と共に写された集合写真」には、 以下の人々が写っています。 後列左から 服部俊太郎・ 浅賀彦右衛門・ 三宅七郎高興・ 中村文次郎・ 中村嘉四郎・ 内藤叔三郎・ 高坂太郎 前列左から 加藤甚平・ 水野彌太郎・ 今泉源一郎・ 加藤宅馬・ 酒井忠篤公(時公春秋十九歳)・ 鱸角兵衛・ 澤井壮彌 この酒井忠篤公の明治時代の動向がわかる日記などの記録がないか? 地元の財団法人致道博物館に問い合わせをしたところ、 末文のような返信メールがありました。 財団法人致道博物館 メールありがとうございました。貴重な情報ありがとうございます。 残念なが ら忠篤の日誌はありませんが、「酒井家世紀」には明治の戊辰戦争で庄内藩は降 伏し、忠篤が家督を弟忠宝にゆずり謹慎、謹慎が解かれ、鹿児島を訪ね、島津家 に挨拶西郷との親交をふかめ、そして西郷の薦めでドイツ留学するまで明治4年 前後の若干の記述がございますのでご紹介いたします。 今後ともよろしくお願い 申し上げます。 ◯公(酒井忠篤)謹慎を解かれ皇恩に酬んと欲す。 明治3年9月24日遠遊志願の旨を忠宝公に因りて宮内省の奏請す。(以下略) ◯明治3年10月27日遊学志願の旨許可せらる。 翌28日家人加藤源五右衛門、加藤右平以下50余人を従えて汽船に搭し横浜を発す。 同年11月7日鹿児島に着き築地兵学寮に投宿す。(以下略) ◯4年2月20日東京府貫属を命ぜらる。 同年3月23日鹿児島より帰京す。 ■明治四歳辛未秋七月二四日公至浅草門外内田九一写真 同年8月12日兵部省7等出仕に補せられ教導団分課拝命す。 同年12月10日御 練兵御用掛命ぜらる。宮内省に出仕して陛下の御相手を奉ぜらる。(以下略) ◯5年2月陸軍少佐に任す。 同年4月辞職、 同年同月19日独逸國へ留学せんこ とを請て許され家人長沢顕郎を従えて東京を出発す(以下略) 敬具 |
![]() 戊辰戦争では会津藩とともに奥羽越列藩同盟の中心勢力の一つとなった。但し、奥羽越列藩同盟は会津、庄内の謝罪嘆願を目的としたものであったため、正確には両藩は加盟していない(会津、庄内間で会庄同盟が締結された)。 戦争では、新政府側の新庄藩、秋田藩領内へ侵攻。当時日本一の大地主と言われ庄内藩を財政的に支えた商人本間家の莫大な献金を元に商人エドワード・スネルからスナイドル銃など最新式兵器を購入。清川口では攻め入る新政府軍を撃退。 その後新庄を落とし、秋田へ攻め入った庄内軍は家老酒井玄蕃率いる二番大隊を中心に連戦連勝、新政府軍を圧倒する。横手城を陥落させた後さらに北進、久保田城まであと数里の距離まで進軍したが、明治元年9月26日(1868年11月10日)東北諸藩が続々と新政府に降伏していくのを見て、庄内藩は各地の戦いでここまでほぼ無敗であったものの恭順、撤兵した。 12月に公地没収。11代・忠篤は謹慎処分となったが、弟・忠宝が12万石に減封の上、陸奥国会津藩へ、翌明治2年(1869年)6月には磐城平藩へと転封を繰り返した。 本間家を中心に藩上士・商人・地主などが明治政府に30万両(当初は70万両の予定だったが揃わず減額が認められた)を献金し、明治3年(1870年)酒井氏は庄内藩へ復帰した。 共に列藩同盟の盟主であった会津藩が事実上の取り潰しとなったのと比べ庄内藩は比較的軽い処分で済んだ。これには西郷隆盛の意向があったと言われ、この後庄内では西郷隆盛が敬愛された。明治2年9月29日、藩名は大泉藩と改称された。 (感謝 http://ja.wikipedia.org/wiki/庄内藩) |
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