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なぜ、下岡蓮杖ではないのか?
なぜ、下岡蓮杖ではないのか? 
・・・当HPは、蓮杖は写真を複写してビジネスしたので撮影当事者ではないと考えるが・・・
森重和雄氏コメント
なぜ、下岡蓮杖ではないのか?
⇒これは石黒敬章さんが最初にとなえ始めたわけですが、(もうご本人は撤回されました)「大礼服姿の大名」「狩衣姿の大名」の二枚の写真が、(「大礼服姿の大名」の写真は、小沢健志編「新版 写真を見る幕末・明治」(世界文化社、2000年)にも掲載されており、「関白」(1860年頃、下岡蓮杖か)とキャプショ ンのある写真)他の下岡蓮杖の写真と混在して見つかったことと、 近藤勇の写真のピラミッド模様とが同じ模様と判断したことから、 それをきっかけに、「近藤勇の写真は下岡蓮杖撮影」という説を書かれたのですが、 これは飛躍しすぎで、単に「近藤勇の写真と「大礼服姿の大名」「狩衣姿の大名」の二枚の写真の敷物の模様が同じ」というだけです。

僕の方はこの「大礼服姿の大名」「狩衣姿の大名」の二枚の写真も堀与兵衛撮影だと考えています。

なぜ、島霞谷ではないのか?
なぜ、島霞谷ではないのか?
森重和雄氏コメント
なぜ、島霞谷ではないのか? ⇒島霞谷は慶応年間は京都、大坂にはいなかったと思います。 中島鍬次郎が上洛した後を受けて開成所にいたはずです。 島霞谷のアルバムには後年、彼が見本のため集めた他の写真師の複写写真が数多く掲載されています。
なぜ、内田九一と言われていたのか?
なぜ、内田九一と言われていたのか?
森重和雄氏コメント
なぜ、内田九一と言われていたのか?
⇒内田九一撮影説の最初は松本良順の研究をしていた鈴木要吾です。
昭和八年一月の鈴木要吾著『江戸医学所と近藤勇』にある記述と、 『蘭学全盛時代と蘭疇の生涯』にある記述ですが、 ここには内田九一撮影の根拠は何も書かれていません。
どうして鈴木要吾が内田九一撮影と考えたかは全く不明ですが、 おそらく松本良順の写真アルバムに近藤勇の写真が掲載されていたことと、 松本良順と内田九一の関係が強いことがその根拠と僕は思います。

また後に小沢健志先生が東京都港区立港郷土資料館編 『写真集 近代日本を支えた人々 井関盛良旧蔵コレクション』 (東京都港区教育委員会、平成3年3月)に掲載されている近藤勇の写真を、 「伝 内田九一」としたことも影響が大きいと思います。

近年では桜井孝三氏が歴史読本の『「近藤勇の写真」撮影地を確定する』で、 近藤勇の写真と松本良順の写真に写っている敷物の柄が同一であること、 また、昭和八年一月の鈴木要吾著『江戸医学所と近藤勇』にある記述から、 この近藤勇の写真が慶応四年二月頃、江戸の医師松本良順の医学所頭取役宅で内田九一 の手により撮影されたものと論述されましたが、 これも残念ながらその論理的な根拠は何も記述されていません。

昭和八年一月の鈴木要吾著『江戸医学所と近藤勇』にある 近藤勇の写真のキャプションとして以下のように記載されています。

『近藤勇の寫眞 慶応四年二月江戸医学所頭取松本良順役宅に於て寫せしもの(写真師内田九一)』(鈴木要吾の「江戸医学所と近藤勇」に掲載されている「近藤勇の写真」の下に記載されているキャプション)


昭和八年八月二十三日に発行された鈴木要吾著『蘭学全盛時代と蘭畴の生涯』には、 「一般に知られて居る近藤勇の写真−−刀掛けを脊にして単座した、ひつつめ髪の物凄 い顔貌−−は矢張りこの内田が寫したものである。」という記述及び、

鈴木要吾著『明治維新奇譚』の「(前略)内田が江戸へ来て撮ったもっとも古い写真 は、西洋医学所頭取松本良順の邸宅南向の縁側で、慶応四年に写した近藤勇の写真であ る。紋付、袴、髪を大たぶさに結って、両手を膝に突き立てたもの(一般に知られてい る)、もう一枚は同様な姿で両腕を組んだものである(後略)」という記述があります。
すべては鈴木要吾の一文から始まったということか・・・・・。