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| テーマ 大坂城内調練の写真と上田藩主松平忠礼の写真 |
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![]() ▲内田九一撮影と言われている調練の写真
▲上田藩主松平忠礼の写真
資料拡大 内田九一撮影と言われている調練の写真と上田藩主松平忠礼の写真 青枠の写真は「慶応4年戊辰戦争に向かう信州上田藩の洋式軍楽隊である」と「幕末写真の時代」で小沢健志は記述している。 しかし、小沢さんには悪いが、内田九一撮影と言われている調練写真と信州上田藩の洋式軍楽隊写真が同じ時に撮られているとHP子は仮定した・・・面白いでしょ。 調練写真と洋式軍楽隊の二枚の写真の類似点は、バックに張り巡らされた陣幕と、酷似した洋装軍服である。 この二枚が同じ時に撮られているとすれば、場所は大坂城で、時は忠礼の記録からみて、文久3年7月の上京時から慶応2年12月14日の帰藩までのことであろう。文久3年7月(1863年)から慶応2年12月(1866年)の3年5ヶ月の間 さらに、写真の撮影された時期は冬であり、家茂のスケジュールから類推すると慶応元年11月から慶応2年4月あたりがもっと可能性が高い。 内田九一が撮影したという説を入れると全く都合が良い話となる。 写真をよく見ると、例の四枚調練の衣装と似ている感じがするが、帽子が妙に尖っている。 季節は冬で、時間は正午付近である。 徳川慶喜が江戸に向かった翌々日(慶応4年1月9日)城内から出火してこの両櫓は焼失している。 うしろは糒御櫓と東菱御櫓 焼失を免れた櫓や城門は、本丸の金蔵二棟、二之丸の千貫・坤・乾・一番・二番・三番・六番・伏見の各櫓と大手・京橋・青屋口の城門及び西丸焔硝蔵・八角薪蔵のみであった。 ![]() 大日本全国名所一覧解説より 佐々木豊明氏所蔵「内田九一:慶応元年大坂城内で西洋式調練を撮影。」 |
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