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テーマ 横浜開港資料館寄託木村摂津守家写真の研究

横浜開港資料館寄託木村摂津守家の写真





左:1860万延元年31歳(木村家説) 右:木村弥重肖像写真1864年横山松三郎撮影(木村家説)

(飯島)横浜開港資料館寄託木村弥重の肖像写真は、1864横山松三郎撮影となっているが、背景の模様は開港資料館寄託木村摂津守1860万延元年31歳と同じである。当時夫人は、京阪なぞに旅行するなど考えられないから、これら2枚は同じ時に撮影され、この木村摂津守の写真も横山松三郎の撮影であるという可能性を示している。中川信輔撮影とされる根拠の、木村摂津守写真の箱は大坂心斎橋北の中川信輔の箱を再利用した可能性が高いといえる。
さらに、上の二枚は、横山松三郎撮影とされる横浜開港資料館寄託の木村摂津守(35歳)といっしょに撮られたとも考えることもできる。しかし、子供を抱いた弥重とこの写真の弥重は雰囲気が少し違う気もする。まあ結論を急ぐ必要はありませんな。



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左1861文久元年32歳(木村家説) 右同じ敷物の近藤勇

この敷物のセッティングでの数点の幕臣たちの肖像写真がある。これらは同時期に撮影されたとするのが自然である。
通説では、近藤の写真などは慶応年間の京都で撮影されたとされ、木村家で伝えられている、文久元年咸臨丸乗組員が撮影には疑問がある。

文久元年と慶応期の記録(記憶)は、いつの間にか、入れ替わってしまったのだと思う。


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1864元治元年9月(木村家説) 家族

右から、木村弥重、浩吉(文久元年1861辛酉七月二十三日生)、女中、清(文三元年1863 癸亥八月三十日生)1864年
ガラス湿板9.5x11.8(cm) 横浜開港資料館寄託
撮影者は横山松三郎

(右から)木村弥重、浩吉、女中(授乳)1864年
ガラス湿板9.5x11.8(cm) 横浜開港資料館寄託
撮影者は横山松三郎



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1864元治元年9月(木村家説) 屋敷

左芝新銭座の木村邸1864年
ガラス湿板11.7x9.5(cm) 横浜開港資料館寄託
撮影者は横山松三郎

右芝新銭座の木村邸園庭1864年
ガラス湿板11.7x9.5(cm) 横浜開港資料館寄託
撮影者は横山松三郎


配置想像図


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1864元治元年9月35歳(木村家説)


(森重)木村摂津守(35歳)1864年
ガラス湿板11.8x9.5(cm) 横浜開港資料館寄託の写真には、箱の蓋裏に「甲子菊秋」と記されているそうです。

撮影者は横山松三郎
「木村摂津守喜毅日記」には以下の記述があります。

「元治元年九月十八日火晴」の件で、
「登営友五ヘ談ス写真鏡家来、函館人松三郎ナル者巧妙可駭」

この記述の「友五」とは幕府軍艦頭取・だった「小野友五郎」のことです。そして「函館人松三郎ナル者」とは「横山松三郎」のことをさすと思います。
この時に撮影したのが、木村摂津守(35歳)1864年 ガラス湿板11.8x9.5(cm) 横浜開港資料館寄託の写真には、箱の蓋裏に「甲子菊秋」と記されている写真のようですね。

(飯島)木村弥重、浩吉・清・女中、芝新銭座の木村邸芝新銭座の木村邸園庭もそのときの写真だと思います。

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1865慶応元年8月36歳(木村家説)

(森重)木村兵庫頭慶応元年八月の写真は箱の蓋裏に墨書きで以下のように記載されています。(図録『咸臨丸太平洋を渡る遺米使節140周年』横浜開港資料館編、平成12年のP25に掲載)

乙丑秋八月初一日寫真干
浪華客舎
揩堂
時年卅又六

また、中川信輔が撮影したことを示す焼き印は以下のように押されていました。

摂陽心斎橋北街
写真師
中川信輔花押印

焼き印のある場所は、同じ箱の蓋裏に墨書き「浪華客舎」の下に押されています。伊藤久子先生がいうには中川信輔撮影の木村の写真には 全てこの中川信輔の焼き印があるそうです。

(飯島)乙丑秋八月(1865年 乙 丑慶応元年)初一日寫真干の記文が後世に書かれた可能性は高いが、木村家がその根拠としているのは、木村摂津守喜毅日記丙寅家居日記の

八月朔日一、午時より左京方へ相越、摂州栄五郎殿一席、写真一枚出来携帰
の記録によるらしい。

木村は、その前月二七日に、やはり左京殿の旅館を訪ねたあと、写真小額二枚を買っている。あるいは、その時写真を撮り朔日に受け取ったのかもしれない。
七月二七日も八月朔日も「御用捨ニ付登城不致候」の日で、休日の愉しみに写真もあったようだ。


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1868慶応4年(木村家説)

撮影時期については、疑問がある。
この写真が文久期で、前出近藤と同じシチュエーションの写真が慶応三年ごろではと思う。

文久元年と慶応期の記録(記憶)は、いつの間にか、入れ替わってしまったのだと思う。

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明治11年8月(木村家説)

長男浩吉文久元年七月誕生
1870明治十一年七月17歳


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