堀家の初代・大坂屋與兵衛は丸太町通堺町西入ル鍵屋町御門前(現在の丸太町通堺町西入ル御所前)で天明三年(1783)に生まれ、「大与・大坂屋與兵衛」と商号し、当時としてはまだ珍しい硝子製造業を始めて商売をしていました。
そして天保九年(1838)享年五十四歳で、この丸太町通堺町で亡くなります。
この初代の大坂屋與兵衛の二代目が堀與兵衛で、文政九年(1826)に同じ丸太町通堺町西入ル鍵屋町御門前で生まれ、幼名は松次郎といいます。
初代の大坂屋與兵衛の後を継いで硝子製造業を営み、嘉永、安政の頃に模造砂金石を硝子で製造する事、つまり阿蘭陀伝来の硝子玉(ビードロ)の製造の成功し巨利を得ています。
また、この頃に大坂屋與兵衛から堀與兵衛と改名しました。
ところが、元治元年七月の禁門の変により、御所周辺も焼け落ち、この時に堀與兵衛の店も全焼し、硝子製造業を廃業します。
その後、避難先でもあった寺町通佛光寺の唐物屋の出店に移り、更に適業を物色することにしたそうです。
写真術については文久年間より研究していたため、元治元年三月《禁門の変の前》から京都寺町通仏光寺境内、寺町通佛光寺の唐物屋の出店にも写場を設けて撮影していましたが、この寺町通佛光寺の唐物屋の出店があった寺町通高辻上ル夷ノ町五四二番の隣りの土地を購入し、山城国季宿郡下京第十三区寺町通高辻上ル夷ノ町五四二番を「堀写真館」の本店にして、二階建て硝子屋根の本格的な写真館を創建し営業写真師として本業としました。
このため堀家では営業写真の創業を元治元年としています。
祇園支店の方は、禁門の変で祇園も焼け野原となった際に、幸い祖母の隠居所があった家が焼け残ったので、そこを「西洋伝方 写真処 出店」としたそうです。
このことは二代目・堀真澄の『堀家三代履歴書』(1907年)に「創業ハ元治元年三月ニシテ」と記されていることから判ります。
明治元年(1868)の戊辰戦争の際に撮影されたガラス湿板写真の桐箱上蓋裏には「西洋伝方 写真処 出店ぎおん町切通シ東入ル 保利與平衛 皇都寺町通佛光寺南」と記されていることから、その場所は当時の「ぎおん町切通シ東入ル」にあったということが判ります。
これが現在の「くずきり」で有名な京都の祇園にある(京都市東山区祇園町北側264番地)「鍵善」本店の辺りと言われています。(正確な場所は不明です)