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1 フルベッキ 写真中央の外国人 (村瀬寿代訳編「日本のフルベッキ」。済美館の写真とは服装、胸元のネクタイ等の形が違うので同じ日に撮影されたものではない。グリフィスの原本にはフルベッキの写る大学南校の大集合写真が掲載されている。グリフィスの撮影と思われる。東京大学図書館には同じ時に写されたグリフィスの写る同様の写真が現存する)
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2 済美館の写真
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<引用資料> http://www.333.ecnet.jp/taiyo.htm
「フルベッキ博士とヘボン先生」
戸川残花
(雑誌「太陽」第一巻第7号明治28年:1895より)
フルベッキもヘボンも日本人の言いなれた名である。
英語ではRev.G.F..Verbeck,D.,D Dr,I.C.Hepburn,M.D.LL,Dである。
世の中のことは一朝にして成るのでなく、ある人の説によれば歴史上現れた偉人の功績を遠くさかのぼって考えると、少なくても150年前にその起因が発せられるとのことである。
そのとおりだと思う。
明治元年より152年前の享保に徳川吉宗は七代将軍家の職を受け継ぎ、中興の英主と仰がれた。
この英主、吉宗は150年後の明治の聖代とどのような因縁をもつのか、享保の政治はその優作という面で数多くあるが、特に注目すべきは,キリスト教書を除いて、禁を解いて洋書を購読することを許可し、儒学家臣、青木敦に蘭学(オランダ学)を学ばせたことである。
蘭書が西洋の開花を導き、医学、法律、兵学などの導入をわが国にもたらしたのは、改めて言うに及ばないことである。
その蘭学はフルベッキ氏とどのような関係があろうか。
フルベッキ氏は米国人か英国人か、フランスか、イタリアか、オーストラリア人か 西方人か。
誰かが、もし氏と半日過ごしたなら、上手な日本語を用い、特に少し長崎の訛りを交えて語るだろう。
客がもし、うつむいて聞くならば、少しも外国人に対面している感じはしない。もしフランス語を知っている者が、試みに、フランス語で法学のことを質問すれば、氏は了解し、必要であれば流暢なフランス語で答えられる。もしドイツ語に堪能なものが、科学のことを問うならば、豪壮な発音で、たちまちドイツ人のごとくに話されるであろう。もし白髪の老人で少しオランダ語を理解するならば、記憶した「グランマチカ」によってオランダ語で話し、和気あいあいとして、オランダ語で答えられる。米国の宣教師と聞いていても、誰もが心のうちで、どの国で生まれたのかと問わずにおれない気にさせられるに違いない。
フルベッキ氏は、オランダ人であり、1830年生まれで「モラヴィアン」派の学校で教育を受け、別けても、優秀なのは語学であった。当時、すでにドイツ、フランス、イギリス、オランダの国語を習得していた。氏もこれらの学習がやがて日本のために役立ち、東洋の文明開化の導きとなるとは夢にも思わなかったであろう。
他の人は天機というだろうし、私は神の御心という。氏のように広い語学者には、母国語というものはなく、語学の上にはほとんど、自国の別はないようではあるが、日本のためにその生来の土音国語、即ちオランダ語が長崎に来たはじめには最も必要な語学であった。氏が生まれた年は今から65年前で、初めて鉄道というものが世に現われた時であり、ヨーロッパの世運も一大動機を発した頃で、人々は皆、機会土木の業に心を傾けていた。氏の親戚もその職業を選ばせるにあたり、工学関係がよいと考えて工学を学ばせた。
学業を終え、職を求めてアメリカ合衆国に渡り、ウィスコンシン、アルカンサスなどで4年を送ったが、氏の性格上工業に従事することだけでは満足できず、ついにキリスト教の教師になることを決意して1856年ニューヨーク州アウブルンの長老派神学校に26歳で入学した。
わが国は安政元年にあたり、アメリカの使節ペリーが浦賀に来航し、国内の人心は恐々とした時であった。
1857年に、米国艦船ポウハタン号が長崎に来て、そのときのチャプレン(艦つきキリスト教教師)はウード氏であり、ウィリアム博士などが企画して日本に新教(プロテスタント)を布教せんと願い、書簡を合衆国の監督、長老、「ダッチリフォムド」(オランダ改革派の意)の諸教派に送り、宣教師派遣を要請した。
実に37年前のことである。
当時は長崎ですら通訳語というオランダ語のみで、武士は髷を結い、大小の刀を腰に差し、300の諸藩は土地を分割し、江戸では大名が行列をなして、大道狭しとばかりに通行していた時代である。
このようなとき、諸派の教師は宣教師を日本に送る審議をし、よく知られている「ダッチリフォムド」派から送ることを望んだ、なぜならばオランダは歴史的に日本と深い関わりがあったからである。
諸教師は神の御心も「リフォムド」派から遣わされることと信じ、ついに、オランダ生まれでオランダ語に堪能な三人を派遣することを決議した。
ニューブランズイクの神学校には三人のオランダ人がいたが、入学して間もない者たちで、宣教師とみなすことはできなかった。やむを得ず広く全国から募集すると、アウブルン校を卒業することになっている青年ギドー・フルベッキという名の者が、日本に派遣するのに適すというホール、ホーレン両博士の推薦があった。
フルベッキ博士はこのようにして日本にきたのである。
蘭学、オランダ人を歓迎するように天は150年前の享保年間に蘭学を習う端を開き、他の外国人とは待遇の異なる、友愛の情趣のある国民としてみられたオランダ人によって、わが国を近世の開花に導き、その宗教を宣教するというのは偶然のことなのだろうか。
個人の業績を詳細に観察すれば、世界観にも通じることができる。
歴史眼は伝記を見ることによって成熟するのである。
フルベッキ博士は、ただちに任職式を受け、宣教師となり行李をまとめてらんを解き帆を開いて宣教の道にのぼったのは1859年5月であり、氏と共に宣教のために日本に向かったのはS.K ブラウン博士,医学士シモンズ氏であった。明治前後に京浜地方に遊学あるいは医学の志あるものでブラウンとシモンズの名を知らないものはないであろう。
三氏は、海路で同年11月7日長崎に到着した。わが国の万延元年で井伊大老が暗殺された年である。
監督派のウィリアム氏も中国から病気療養のため長崎に来た。
宣教の第一歩は国語を学習することで、幸い中国語訳の聖書とマルチン氏著書天道潮源があり、氏はまず中国訳の本によって宣教を手がけることになった。ああ、欧米の人が中国の文字を借りて、わが国に宗教、学芸の道を開いたのである。
同じ文のわが国は、中国を文明に導くことは容易であり、法律家,医師,工芸家、詩人、文人は縁大な筆で28年間養った近世の知識を四百余州十八省に伝えるのがわが国の天職ではあるまいか。
今や,武力でおごり高ぶりの愚を懲らし、漢文を利用して知徳を彼らに伝え共に東洋全体の利害を企画するべきである、慶応、明治の初めにマルチン、ゴウソン、イリアム諸氏の口で訳し、漢文に写させて、医学書、博物、地理、史伝はわれわれの開明に大きな役割を果たした。
既に開国の機会は熟していたので、氏が長崎にいるとき、夜ひそかに訪問して道を問う医師、遠く肥後(佐賀)より来た僧もあり、みな漢訳の本を受け取って愛読し、おしまいには氏が持参した書物は一部も与えるものがなくなった。しかし、このように中国語訳本の頒布はキリスト教を慕うのみでなく、訳書によって、他の意思を窺い、邪宗門である耶蘇教はどのようなものか知るために来たものも多かったという。
鎖港の説や攘夷論は弊害であり、愚かであるとはいえ、中国朝鮮にまごころ国のため歯噛みをして政論を戦わす者がいるだろうか、宗教の真偽を知ろうとして夜間、外客のところに来て道を問うものがいるだろうか。
ある老僧は、その徒弟に氏に就いて三年の長い期間,倦まずに教えを聴き、氏がその僧に伝道をしてみなさいと言うほどなったが再びこなくなったとのことである。これらは深く教理を探り、キリスト教を排斥するためだったらしい、今、その老僧の名を知ることはできないがその教えのために尽くしたといえよう。
日本人はまだ天主教(カトリック)と新教(プロテスタント)との区別を知らず、混同して批難する者も少なくなく「長崎話」「邪宗門の話」(?)などの小冊子は世に公にされていた、みな仏教家の手によりできたと言う、刊行は1868年というから明治元年のことである。
以上は氏が直接伝道を始めた当時の情況であるが、伝道のほかに(氏は同一の目的を達したのであえるが)わが国の開明に益する道は英学を教えることから開かれた。長崎に来て2年後、二人の青年が英文で聖書を学ぶことを求め、数ヶ月の通学し、ある日得意顔で、二頭の黒豚を謝礼として送り、氏の教授により試験成績も大変よく、政府から賞与をうけたとのことである。このことから氏の名が日本人に知れ渡ることになり、ついに長崎の公立学校に招かれることになる、当時はまだ徳川家が政権を奉還される前で慶応元年西暦1864年でこの学校とよばれたものがいかなる人によって支配されていたか、今は知ることができないが、この伝記を読んで官庁か、ちまたに「私も当時の書生であった」と微笑する人もあるだろう。
氏はこの時から身は宣教師であったが派遣された「リフォムド・ミッション」からの支給を謝し、14年間は全く日本政府に招かれいわゆるお雇い外国教師の名で、その語学と博識により、顧問の地位にたって、官吏の職の勤めに尽力した。
前述のように二三の青年が英語を学ぶため聖書を読み、或いは謝礼金を受けなかったので黒豚をもって、その懇情に報い、或いは学生から紹介されて学校に招聘されるなど、維新前後の世の私塾、学校、学生の様子がしのばれる。当時の学生はどのような生活風習であったか、もとより士人であるからいかめしく袴をはき、紋付の服を着用し,その素質は仙台、呉仙、羽二重、亀綾の貴品ではないが、小倉の袴折り目正しく、黒木綿の紋付いやみなく、両刀は金銀で飾ってあるが、多くは南蛮鉄の装飾で官吏武人であることを現わしている。
髪は固く結び、少しまなじりをつるようで、特に九州武士はこのような様相であった。
氏が佐賀の学生と共に撮影した写真を見ると、30年前の武士が眼前に出てくるような感じがする。
氏は特に佐賀の藩士に知人が多く、村田若狭(鍋島家の重役)が教えを聞いて受洗しキリスト教徒になったのは今から29年前のことであり、わが国におけるキリスト教徒の先駆けである。
(当時は日本全国にキリスト新教信者は二人だけであった)
長崎の学校に招聘された後、佐賀藩士を教育するため、鍋島家が長崎に学校を開き、隔日に教授することになった。
この学校の生徒の中に、今は岩倉公爵とその令弟(具経朝臣か)もおられたと言う、江藤新平氏もまた中野賢明氏もおられたとか。両校は実に俊才を輩出させたところで、今日誰かを明らかにしがたいが、朝廷に立ち、また民間にいて明治の大業に貢献した人々もある。
慶応の末から明治の初めは,海内は騒然として人身は恐々としていた。しかし両校は一日も課業を休むことなく京畿の戦いも東北の内戦も終わり、硝煙弾雨が晴れて、氏は招聘されて東京に上り開成所の教授となり、すべての外国語と外国語教師の監督を任じられた、氏が長崎を離れたのは1869年明治2年3月、年齢は39歳まさに「強」という年であった。
当時のこと、勝伯の亡き友、八田知紀大人がフルベッキ氏に逢ったことがあり、英国公使パークス氏と比較して批評しフルベッキは伝〃と氏が宗教家であることを難じた言葉があり、交友の広さが推察される。崎陽(長崎)に遊学した志士名士で氏に会わない者はなく、そのため直接間接を問わず国事を助けたことが多いのであるが,氏の慎み深さと口外を好まなかったことは、近世史に益するという面で残念でもある。
氏はこのような学事を統括するだけでなく、外交上の事件についてももろもろの質疑に答え、そのため夜間も種々の書を開き、その勉励ぶりは驚かされるばかりであった。
アウブルンの神学校を卒業し宣教にのみ従事しようと思った者が、直接に関わったとはいえないが、堂々たる大国の政治上、法律上の顧問となり、或いは説明し、或いは翻訳し、精勤昼夜、心身を労す、初めの志は達せないように見えるが、博愛の道は彼をほかにないといっても過言ではない。
1873年(明治6年)より太政官のお雇いになり、後に元老院に転じ、また華族学校(学習院)の教授となった。
氏が幼児より教育を受けた語学を応用することが多く、太政官も元老院もその力を翻訳に当て、特に大業というべきは箕作?祥、加藤弘之、細川潤次郎などの諸氏と共に「ナポレオン・コード」欧州諸国の憲法などを翻訳したことである。最近、帰国されたフランス国法律博士ポアンナード氏は21年前に来日されたという。
指折りして考えれば氏が太政官に招聘された頃である、謙遜に事に務め、問いに応じた人とはいえ、求めずとも得られた当時の栄誉は実に大きかった。
このように多忙を極めたのではあるが、日曜日は必ず説教をしていた。
白駒は分秒も歩みを止めず、14年は一夢に似て、明治も十年となり、百時は整えられた、政治、法律、教育に専門家も少なくなく、氏の天来の語学と博識も深く求められることがなくなったことを知り、その地位を専攻の者に譲り、初めの願いであった宣教に従事しようと職を辞して飄然と故国(?)アメリカに帰り、家族と共に休養すること一年、さらに宣教師の現職に任じ、日本に帰国(?)したのは17年前(明治11年)であった。
明治十年は老西郷も死去し、木戸侯も去り、11年には大久保右大臣も兇人に刺されて世を去り、世はあらたまり人は変わって文久、元治、慶応の社会で活躍した志士は、功績をなして内閣の上層部に入り、或いは道半ばにして、挫折して名も知られずに没し、明治の大劇の一幕がおろされた。
氏はもとより政界人でなく、まして公武薩会の間を奔走した人でもなく、オランダに生まれ、北米で学び、宣教のために長崎に来た人であるが、時代は、はからずも、氏を維新の大業を建てた新政府の中に入れ、法律、教育、外交などのため顧問として第一の舞台に用いたのである。
150年前に禁を解かれた蘭学は外国語学を導く船となり、オランダ人は外国の開化を入れる案内人となった。
150年後にフルベッキ氏をわが国のために尽力させ、一日の事、一人の事は、みな数月、或いは数年前に発端あってその結果が一朝に結んだのである。
造化の意匠は広大無辺と賛嘆するばかりである。
氏は、宣教に専念したとはいえ、宗教界もまた語学と博識を必要とし、時には聖書翻訳の改正、内外の名士はギリシャ語、ヘブル語の原書と対照するために英独諸国の翻訳を用い、一字一句を校訂していた訳で、氏を歓迎し、ただちに委員の中に選挙した。
昨日までは政界人と交わって官署の間を車で走り,今日は明るく清らかな書斎で古典を紐解き、内外の学士と静かに字句を検証する、うらやましい生涯ではないか。
4年前から東京白金の明治学院で神学を教授しておられる。氏は今年で65歳、強健で堂々たる六尺の体格である。氏はいつも「私が心身に健康と幸福を感じるのは一日三回も講義説教をして単身方々を巡回しているときです。」と述べておられる。氏は普通の人が五六週間かかってなすところを一度に成し終える。
家庭も祝されて子女六人あり、時には春のように暖かい家庭団欒を楽しまれる。
ブラウン氏は永眠し、ヘボン氏は老を養うため故山に帰り、今は老監督ウィリアム氏とフルベッキ氏が東京におられるのみ、蔓延、文久、元治、慶応のことも過去の史談となり、明治も28年となった、変遷の感、深いものがある。氏は外臣として功績が数多くあり、明治十年(1877年)に勲三等に叙せられ旭日の勲章を賜る栄誉を得た,これにより氏が忠実励精にわが国家のため尽くした大きさが知られる。
また明治24年7月には時の外務大臣榎本武揚氏から次の書面と特許状を渡された。
「貴下にはオランダの原籍を失い、アメリカ合衆国においてもいまだ帰化の権利を得られずついに無国籍となられましたので帝国政府保護の下での居住を望んでいる旨、本年三月に前外務大臣に対して要請しました。それは前外務大臣より裏書きされています。貴下は数十年間、わが帝国に居留し、わが帝国の利益のために少なからぬ力を尽くされました。また、わが官民に愛され、尊敬されてきました。それゆえに、私は喜んで貴下が望まれた特許状を別紙にてお送りいたします。尚、上記の特許状は本日から一年間有効であります。一年ごとに同じ特許状を更新し、交換する許可が与えられております。 敬具
明治24年7月4日 外務大臣子爵榎本武揚
ギドウ、フリントン、フルベッキ貴下
特許状
無籍外国人
勲三等 ギドウ、フリントン、フルベッキ
(以下夫人並びに五男二女の名は略す)
右は帝国内に於いて帝国臣民同様帝国の法律規則を遵守する義務あるものにして明治二十四年七月四日より 明治二十五年七月三日に至るまで帝国臣民同様帝国内自由に旅行し各地に滞在在居することを准許す。
外務省」
氏は述べてきたような生涯であり、また政治上の運動を欲する思いもなかったが生まれ故国オランダの戸籍から除かれ(その国に不在住、5年以上は戸籍より除かれる規則だとのこと)米国に来ても入籍の手続きをせず(在住3年で帰化の願いを出し5年目に許可されるとのこと)無国籍となったのである。
氏は米国に帰り5年在住するならばその国民になることは容易であったが、故郷同然の日本を去って空しく5年の光陰を過ごすことを好まず、ついに政府に請願して前件の特許を得られたとのことである。
今や条約は改正され数年後には国内の旅行も珍しくなくなり、ましてわが国の法律に外国人が服することも当たり前のことであるが、明治24年の夏、自ら喜んで日本の法律に服しその裁判に身を託すことを明言し、政府もまたその功労を認め、その求めに応じたのは美談といえる。
氏の交際した人、門下の学生には岩倉侯、大隈、大木、伊藤、井上の諸伯、加藤弘之、辻新治、杉恭二、何禮之、中野健明、細川潤次郎の諸君がいる、故大久保侯、江藤新平、横井小楠あり、英字辞典を著した柴田氏などもおり、美談やエピソードが多いけれども氏は謙遜深くあえて当時のことは語らず、この伝記でさえ自ら語ることを好まず、何とか写真だけは借りることができたが、その小伝を知ることはできず、幸い友ワイコフ氏が、氏の小伝を編集しているのでその原稿を借読し、私の記憶しているものを加えて記述した。詳細な伝記は、他年の後、世にあらわれることとなるだろう。(現代語訳南沢満雄2005・12・5)
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