



慶応3年(1867)の王政復古後、薩摩藩は、徳川氏討伐の口実を設けるため、江戸市中の治安を混乱させていた。
そこで幕府は、荘内、厩橋、松山、鯖江、上山の諸藩に命じて、三田の薩摩屋敷および支藩の佐土原藩邸を焼き打ちさせた。薩摩藩はこれを口実に徳川氏討伐のための戊辰戦争を起こした。
ベアトは、混迷する政局を背景に勃発した大事件の現場を記録しようと、いさんで海浜の薩摩屋敷現場に向かったが警戒が厳重で立ち寄れず、坂上の島津佐土原藩邸(現三井倶楽部跡)の第二現場を目指した。
しかし、坂下の警備役人たちの非常線に阻まれ、三田から(112)も麻布から(113)も、彼はその現場に立ち入ることが出来なかった。
これらの写真はこの歴史事件を記録した貴重な「対」の二枚である。
二枚の写真に写る武士たちの背後にあるのは、何れも、第二事件現場の島津佐土原藩邸である。
これらの写真に写る謎の侍達は、ベアトの行く手を阻んだ幕府の役人達であると考えると面白いではないか。写真を詳細に見ると、坂上の小屋や、天祖神社の境内にまで、侍たちが配置されているなど、きわめて特殊で異常な状況であることを知ることが出来る。
庵主は、二つのアングルの組み合わせによるこの一対の写真は、数日前の事件の真相を追って果たせなかった、ベアトの苛立ちをも表した、歴史証言となる歴史事件の現場記録写真であったと想像する。
今も昔も事件現場には民間は立ち入れないのである。
こんなわけで、庵主はこの写真の撮影日は、江戸薩摩藩邸襲撃直後から徳川幕府機能が完全に崩壊するまでの数週間のことであったと推測する。
残念ながら、マレーによる「112写真」の解説シートにある事件の詳細な記述(下記資料参照)は、「113有馬様の屋敷」の解説シートのほうにはまったく見られず、たんに江戸の大名の住まいや暮らしぶりが書き添えられていた。
本来この「対写真」で語るべき、歴史事件の報告を、別の意図の下に書き換えられてしまったことについて、ベアトがマレーに異論を唱えたかどうかは定かではない。

112番の写真の「日本風俗写真帳」に記載された解説シートが下記の一文である。
(横浜開港資料館「F・ベアト幕末日本写真集」より転載)
ことに興味をひくのは、ここが1868年1月19日(慶応3年12月25日)に演じられた悲劇の舞台であるからである。薩摩屋敷から出たもの以外にも、この破壊の原因に関する相矛盾する報告がたくさんある。しかし、神奈川奉行の役人が出版した、公式の報告以上に頼りになるものはないだろう。その報告にはこういう趣旨のことが記されている。江戸の内外で憂慮すべき事件をひきおこしている強盗集団、つまり浪人達が薩摩屋敷まで追跡された。そこで、彼らを裁判にかけるために引渡すよう要求する使者が派遣された。ところがその使者は首をはねられたのである。
そして、彼に同行していた大君軍の分隊が火をはなった。薩摩藩の四つの屋敷はすぐに軍隊にとり囲まれ、想像以上に恐ろしい破壊と流血の光景が続いた。老若男女か砲火で焼け出され、馬は頭部にやけどを負った。公式な報告が知らせるところでは、50人から60人の強盗が死亡した(そして、260人の捕虜が捕えられた)。しかし,もしこの数字が仮の占領者、つまり薩摩屋敷内に避難しただけの人間が殺された数字だとするならば、一体、その璧の内で永住していた家臣のどれほどの家族か路頭に迷ったことであろう。それは今にわかに語ることはできない。
この日曜日の朝の太陽は、気品高き建物と、たぶん幸せな住人の上をバラ色に染めていたことであろう。しかし、この日曜日の夕方には、めった切りにされた死体とくすぶり続ける燃えさしの光景で終わったのである。これは強盗の巣窟を根絶するということでは正義だったのかもしれない。しかし、迅速な報復手段を行使するにあたって、犯非者の犠牲となった無実の人々の存在する事実は、重要なことと思われなかったようである。
もう一つ明らかなことは、日本を支配する法律が(古代ギリシャの)ドラコンの厳しい法典であるということである。