「飽の浦恵美須神社」写真の情報整理 2

明治五年六月十四日〜十七日(新暦7月19日〜22日)の「飽の浦恵美須神社」

「長崎著御  十四日 拂暁二神島の南方に至りたまふ、波浪愈々高く、江島・大立島の間潮勢急なること箭の如し、福田沖に於て艦列を整へ、牛後四時長崎港口に進むや、砲臺及び露西亜国軍艦祝砲を発し、亜米刊加合衆国軍艦其の他碇泊の内外商船悉く飾旗の禮を行ふ、御艦楽を奏して此の間を徐行す、五時二十分入港し、鞄の浦と大浦との中間に投錨す、」
(明治天皇記より)

内田九一は海軍省雇いで西国九州巡幸に参加した。宮内省文書によると、七月二十三日内田九一が巡幸中に撮影した写真全てを、折り本一冊にまとめ(紙写真共相添)海軍省が宮内省に渡し、八月十八日には九一から請求のあった代金五十一円が宮内省より海軍省に支払われている。
(岩壁義光氏:鹿鳴館秘蔵写真帖-西国巡幸より)

4枚組みのパノラマ写真一番左にある「飽の浦恵美須神社」は、すぐ右の写真との画面内容の繋がりが完璧である囂庵の分類「typeA」の写真が正しい写真であります。

一点から水平角がやや上向きのレベルで見事なパノラマ完成。
写真師は上野彦馬か内田九一か、それは不明だが、プロデューサーは内田九一であることは間違いない。

● 注目1 

明治五年長崎港における龍驤と春日の見極めpointを見る

● 注目2 

運上所事情の変化


● 注目3 

B写真のパノラマもどきを確認する


明治七年VIEWS OF JAPANの恵美須神社写真の共写真に残る樹木の折れた跡は何を語るのだろうか。

明治五年写真の男性が腰を掛けている松の木のその後の姿と推測できる。この二年の間にこの松の木に何が起こった。これまた余には興味深いモノがある。