
| 依田四郎左衛門信義 のぶよし ?奥さんは | 8 盛芳家へ 没 家督 | 柳営補任に記録なし | 9 盛芳家から 養子 ?従兄弟 森山孝盛 |
9森山孝盛欄に記載 | |||||||
| 6 森山盛寿 家督相続 享保十八 没享保十八 柳営補任に記録なし |
7 養子 | 嘉永三戌年 今井谷六本木 赤坂絵図より![]() 氷川明神社裏の稲垣金吾屋敷が安政六年七月から 静岡移転までの勝麟太郎の屋敷となる |
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赤坂桐畑 あかさかきりばたけは、明治期になっての赤坂田町六丁目七丁目あたりの地域呼称 向かいの溜池側の赤坂溜池町は、のちに料亭や待合や芝居小屋などが立ち並んだ繁華街となる 背後の福吉町には、明治五年より徳川宗家徳川家達のお屋敷 |
![]() ![]() 四代目市川米蔵 写真師は 森山こう |
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?女子A 旦那は依田四郎左衛門信義 |
?養子森山盛明 | ||||||||||
| 7 養子 兄 盛寿より家督相続 宝暦七 養子の姉の子の甥の盛明が家督相続 柳営補任に記録なし |
8 依田四郎左衛門信義から |
柳営補任に記録なし | 9 盛芳家から 養子 ?従兄弟 森山孝盛 |
9森山孝盛欄に記載 | |||||||
| 9 義兄盛明へ 生没 家督 超インテリの実務家で、時の内閣官房長官の松平定信や旗本官僚たちからの信頼はことさら厚かった |
柳営補任②128 天明四辰九月十四日 46歳 1784年10月27日 御大番ヨリ 小普請組支配組頭 寛政二戌九月朔日 御徒頭
柳営補任③296
柳営補任③110
柳営補任③72
柳営補任②224
柳営補任②188 |
10A 長女 りさ 松平定信によって大奥に送り込まれたスパイと評判 婿養子 むこ殿は |
柳営補任⑥96 同日 (寛政九巳閏七月十七日) 34歳 1797年8月9日 同人組(御書院番松平内匠頭組)ヨリ 文恭院様御代 御小納戸 文化四卯正月二十六日 御小性
柳営補任⑥52
文化九
柳営補任③280
柳営補任③27
柳営補任②190 倅盛廣新規被召出
柳営補任②178
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森山盛之 熊五郎 源五郎 生没 |
柳営補任に記録なし 家督なし |
12 盛廣へ 淨夢カ 生没不明 ? 仮推定34歳 |
柳営補任に記録なし point 森山淨夢であればと仮定して以下
叔父森山盛廣へ 養子 旗本森山家相続
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墓碑記録に没時年齢がないので 妻千代との年齢バランスを考慮し 仮定の生年を設定する
point 奇しくも、森山淨夢は、後年隣屋敷にやってきた勝海舟(文政六年生まれ)とほぼ同年代の人物、隣人のよしみで、親交が深かったか、両変人相容れずで、微妙な関係であったかは、全く想像の域を出ない 今後の研究者に期待したい
明治五 明治十三 |
森山與一郎 生年不明 二代目(仮称)森山写真館 新富町 |
妻は 松前氏 こう
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森山宗次郎 生没不明 四代目(仮称)森山写真館 新富町 |
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| 森山盛本の父親:土方半三郎久忠 |
10B 妻: むこ殿は 土方半三郎久忠次男通称與一郎 森山盛本 生没 49歳家督 |
初代(仮称)森山写真館 | 妻 松前こう 三代目(仮称)森山写真館 新富町 |
森山こう 尾上菊五郎が |
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| 仮定系譜
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11 森山盛廣 生没 41歳家督 |
柳営補任⑥124 同日 (天保五年十一月二十三日) 36歳 1834年12月23日 御槍奉行安藝守(森山盛本)惣領 新規被召出 文恭院(徳川家斉)様御代御小納戸 同日同断二付被召連
柳営補任⑥164
柳営補任⑥173
柳営補任⑥200 以後が 不記載
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12 養子 淨夢カ |
柳営補任に記録なし 森山盛宗欄に記載 |
赤坂桐畑すなわち赤坂田町六丁目とある仮称森山写真館が乗っている明治十年の懐中東京案内![]() 号の淨タケカンムリに乃? ただし、タケカンムリに乃という漢字は無い 推測するに版木屋さんが 残念なことに明治十四年版にも継承されたうえに なんと! 改正東京案内 | ||||||