全て推定想定のストーリー
元治二年八月、横浜吉田新田の西南角に横浜製鉄所が竣工した時点では、製鉄所背後の吉田新田一帯はまだ沼地の未開の地のままだった。
当時、新設横浜製鉄所へ既設のアプローチ方法は全くないに等しかった。よって、製鉄所正面に仮称製鉄所橋が架けられた。
時が経ち、明治十七年に製鉄所が完全移転してしまうと通用橋の仮称製鉄所橋は用をなさなくなり、花園橋がすでに架設されていたこともあり、木橋仮称製鉄所橋は廃棄となった。
でも、もったいないということで、解体され不要となった仮称製鉄所橋は、市街地として整備されつつあった吉浜町と小田原町等を結ぶ橋として、河岸を変え、第1号木場「初代」吉浜橋と変身した。
日本の建築文化で綿々と行われてきた、使える資材の再利用は当たり前だが、いわばそれ、今ごろ流行りのSDGsの数百年も前からの先取りというわけだ。
その後交通事情や隣接地区のさらなる発展等の変化で、自動車車両の往来などに十分耐える鉄構造の「二代目」吉浜橋が誕生した。
近年になり、派大岡川の都市道路化による区画整理に沿って、現在の位置へ移転した。
・・のだろう。
2022/06/10 追記